第26回:「デジタル革命と顕名市場」
コラム<はじめに>
とある八百屋さんで、近所のおばちゃんが買い物に来たときの店主の言葉。
「息子さん、昨日の運動会で頑張ってたねぇ。今日は大根一本、おまけしとくよ。」
お客様のことを良く知ってるからこそできる会話。八百屋さんのような、近所の主婦が主たる客層であれば、こういう会話も大事かもしれない。
一見さんお断りのお店も興味深い。何かの縁で紹介してもらって、たまに行くことがある。ある日、お店にいたのは自分と連れの二人だけ。お店に入って最初のお通しが出てきた頃に、別のお客様が。
「あー。ごめんね。もう、今日は終わっちゃったんだよね。」
いやいや、これからスタートやんか!と思ったけど、なるほど、一見さんお断りのお店は、こうやって知らないお客様を帰すのか、と勉強になった。
どちらの例も、本連載でいう顕名サービスを提供している。お店が (お店の主が) 個客を特定し、個客にあわせて特別な体験を提供する。モノとカネの交換だけではなく、個客の体験を重視するサービス、と言って良いだろう。
はて。顕名取引は昔からあったということか。
そう。昔も、顕名取引はあった。というか、それが当たり前だった。その後、ビジネスの規模を求めるようになったことをきっかけに匿名取引を中心とする匿名市場が広がり、今、あらためて顕名取引を主とする顕名市場にシフトしようとしている。
本連載では、匿名市場から顕名市場へのシフトを主題にさまざまな事例を紹介してきたが、今回は、時代変化に伴う市場構造の変革について紹介してみよう。
<2つの「革命」と市場構造の変革>
歴史を振り返ってみると、市場構造の変革をもたらした要因は「革命」と呼ばれる2つの大きな変化だと言えそうだ。1つ目は「産業革命」、2つ目が「デジタル革命」である。これらの革命に起因して市場構造の変革が進み、結果的に匿名市場から顕名市場へのシフトが進んだと言える。
どういうことだろう? 超絶簡単にではあるが、時間軸に沿って、市場の構造変革について考えてみよう。
<産業革命以前>
昔よく聞いた「ツケ払い」は顕名の一種である。落語でも「ツケ払い」はよく出てくる。ツケで蕎麦を食べる話。年末にツケを踏み倒そうとする話。なんとかツケを回収しようとあれこれ工夫する話なども有名である。現金払いであればお客様を特定する必要はない。一方、ツケは個客を特定し、取引と信用を記録することが前提である。個々のお客様を特定し、そのお客様の事情にあわせてサービスを提供する。ある種の顕名サービスと言える。
考えてみると、産業革命より前、取引は対面・直接的に行われるのが当たり前だった。冒頭に紹介したような八百屋や一見さんお断りの店、あるいは常連さんが集まる店、昔あった置き薬の商売など、対面を前提とする取引がほとんどだったのだ。商売をする人は、お客様のことを詳しく知って、お客様にあったものを紹介したり、特別な言葉をかけてみたりと、「個客」を大事にすることが喜ばれた。顕名取引が当たり前だったと言える。
<図1:産業革命以前 〜 対面・直接的取引が中心の時代>
匿名市場から顕名市場への推移を表現するために簡単な図を作ってみた。図1で、横軸は規模 (スケール) を示している。縦軸は、上が顕名 (個客を特定する市場)、下が匿名 (個客を特定しない市場) を表現している。
産業革命以前の市場を図1の◯で示した。産業革命以前は対面・直接的な取引が当然とされた。顕名が当たり前の時代である。ただし、取引は face-to-face が前提だった。必然的に、ビジネスの規模・市場の規模はものすごく小さかった。
<産業革命後>
産業革命 (18世紀半ば〜19世紀) は市場の構造を大きく変えた。機械化・自動化によって均一・共通の品質のものを大量に作ることが可能になり、印刷・電波の発達により遠くの人にそれを伝えることが可能になり、流通の発達がそれを遠くまで運ぶことを可能にした。
産業革命は市場に大量生産・大量消費をもたらした。この時代に重視されたのはマス (大衆) という考え方である。お客様一人ひとりに対して個別対応をすることは、規模の経済にとっては非効率である。大量の商品を市場に出し、マスを対象に大量に買ってもらうことが「規模」を生み出した時代である。
<図2:産業革命後 〜 大量生産・大量消費・匿名大衆が対象の時代>
産業革命後に重視された数学は統計やマクロ分析である。個客を把握することをあきらめ、マスを対象に市場全体を理解することを優先した。市場全体で何百万人が購入してくれるか。市場全体の興味・関心のトレンドはどこにあるのか。マスの動向が重視された。
産業革命後に重視されたものは規模の経済である。大量生産・大量消費を前提に、いかに効率的に大量・安価に商品を作り、多くの人に売るか。必然的に個客への対応はコストと考えられた。取引の対象は匿名を前提とし、点 (POS = Point of Sales) での取引、モノの販売、原価で価値を考える、などの匿名市場の構造に向かった。
<デジタル革命による構造変革>
今、我々が直面するのはデジタル革命である。デジタル時代、様々な技術が使えるようになった。技術の詳細はともかく、デジタルの浸透がどんな変化をもたらしたかを理解することは重要である。技術の進歩は、あらゆる場面、あらゆるシーンでデータを取得することを可能にした。集められた膨大なデータを蓄積しておくだけのデータ基盤も実現された。その膨大なデータを処理するだけのコンピューティングパワーも手に入った。複雑な状況に応じて、自動的に判断するためのロジックもできつつある。
デジタル革命による高度な技術の発達と浸透は、個客理解・個客把握を通して、個客一人ひとりに特別な体験を提供することを可能にした。産業革命後、匿名大衆を対象と考えた時代を超え、あらためて個客一人ひとりを対象に取引が可能な時代になった。顕名取引の復活である。
<図3:デジタル革命後 〜 個客一人ひとりに体験を提供する時代>
デジタル革命後に注目を集める企業は、個客サービスを重視するケースが多い。Amazonによる個客体験の提供 (本連載第1回、第2回、第12回) は言うまでもない。Googleの検索が、実は一人ひとり処理の内容が違うことも興味深い (本連載 第22回)。Facebookが一人ひとりに、異なるページを表示すること (ユーザごとに、つながっている友達の投稿が表示されるので当たり前の話なのだが) も顕名サービスと考えて良いだろう (本連載第23回)。Alipay による信用スコア (本連載 第8回)、Disney MagicBand (本連載 第9回)、Netflix によるArtwork (本連載 第13回)、などなど。いずれも、デジタル技術を活用し、個客接点でデータを集め、個客理解を通してパーソナライズされた個客体験を提供している。
重要なポイントは、デジタル革命後は顕名と規模を同時に追い求めることが可能になったことである。デジタル技術の活用が規模の拡大を実現する。今、地球規模のグローバルな企業は、数十億人の利用者を対象に顕名サービスを提供している。
<おわりに>
今回は産業革命やデジタル革命がどのように市場構造を変えたかを考察した。本稿では、匿名市場から顕名市場へのシフトを考える視点から、(1) 産業革命以前の顕名・小規模な市場構造から、(2) 産業革命による匿名・大規模な市場への移行、さらに、(3) デジタル革命による顕名・地球規模の市場へのシフトの3つの段階があったことを紹介した。
デジタル革命は、技術の発展・浸透によって市場構造を大きく変えた。個客接点のデジタル化 (あらゆるシーンでのデータ取得)、データ基盤の構築 (取得した膨大なデータを蓄積)、データに基づくパーソナライズと個客体験の提供 (データ処理・ロジックによる自動的な判断)。デジタル技術によって、顕名取引を自在に提供することが可能になったとも言える。
同時に、規模の拡大にも注目したい。デジタル技術の活用は地球規模での顕名市場の形成を可能にした。今では、数十億人を対象とする顕名サービスも提供されている。
あらためて考えてみると、顕名市場は、本来、我々にとって馴染みの深いものだったのかもしれない。本稿で整理した通り、昔ながらの対面・直接的な取引は顕名が当然だった。face-to-face の顕名取引は、とても人間的であり、情緒さえ感じる (笑)。産業革命以降の大量生産・大量消費・匿名大衆を対象にした市場構造は、規模や効率を最優先し、ある意味で、機械的だったとも言えるのではないだろうか。
デジタル革命以降に登場した顕名市場はどのような位置づけになるのだろうか。顕名市場では、個客を理解し、個客一人ひとりに特別な体験を提供する。よりお客様に近づいた、とも感じる。実は、デジタル革命による市場の構造変革と時を同じくして、経営・組織論にもそれに通じる動きがある。産業革命後の規模の経済を重視した時代に、組織はルールやマニュアルに基づいて効率化することを優先した。デジタル時代、顧客や社員を重視し、効率よりも、一人ひとりの個性や特性を活かした価値創造の組織づくりが議論されはじめている。もしかすると、デジタルの時代は、より「人間らしい」社会へのシフトが進んでいるのかもしれない。
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