Jライブラリー

第6回:原価から成果へ

中川郁夫 コラム

<はじめに>

私は鼻炎に悩まされている。血液検査で代表的なアレルゲンに反応はなかったが、症状は明らかにアレルギー性鼻炎だという。それ以来、いろいろな鼻炎薬を試してみているが、これがなんとも難しい。眠くなるのは困るし、全く効かない鼻炎薬も多く、時間とお金だけを浪費していく。最近、ようやく良さそうな薬に出会ったが、それまでに相当な費用をかけたように思う (涙)。

ふと考えると、なぜ私は「効かない薬」のためにお金を支払ったのだろうか。もちろん、薬に値段があることは理解しているが、その薬が「外れであることを確認する」ためだけに、何十錠も箱詰め・瓶詰めされた薬を定価で購入する必要はあったのだろうか。もし、効果のある薬が見つからなかったら、私はどれだけ散財したのだろうか (いや、その前に別の手段を考えろ、とも思うが、笑)。

何をばかなことを。そんなの仕方ないだろう。 という声も聞こえてきそうだが、ホントにそうだろうか。

今回は「価格」の視点から上記の話を考えてみたい。以下では、本連載のテーマにならって、匿名取引と顕名取引での「価格」の考え方を比較しながら議論を展開してみよう。

<ノバルティスの挑戦>

医薬品メーカーのノバルティスは、薬を提供する新しい事業モデルにチャレンジしている。イノベーティブな変革は2つある。ひとつは、薬メーカーでありながら、「薬を販売する」のではなく、「患者一人ひとりをサポートする」こと。もうひとつは、薬を作るのにどれだけの原価がかかったから値段はいくら、ではなく、個客が得られた成果に対して対価を求めるモデルに変革しようとしていることである。以下、少し詳しく見てみよう。

同社が提供する「ジレニア」と呼ばれる薬がある。20代から30代の女性にみられる「多発性硬化症」向けの薬である。この病気は認知が難しく、再発しやすく、治療に時間を要するという。ノバルティスは単に薬を売るのではなく、患者一人ひとりの状況を詳しく把握することからはじめた。患者の症状にあわせて治療プログラムを提案し、治療や投薬履歴、症状の変化をプラットフォーム上で管理し、遠隔モニタリングを含めたサポートサービスを展開しているという。

ノバルティスが提供する患者サポートサービスは患者一人ひとりの病状を把握し、回復まで寄り添って支援することで、個客が健康を取り戻すところまでをサービスとして提供する。薬局で匿名大衆に薬を販売する、あるいは病院に患者の対応を全面的に任せてしまう形ではなく、薬メーカー自らが、患者一人ひとりのモニタリングとサポートを行うということはとてつもないチャレンジであろう。

薬を売ったら取引完了、ではなく、患者がなぜその薬を必要とし、どうやって健康を取り戻すかを考えた「つながりの取引」の事例として注目に値する。

<成果報酬型のビジネスモデル>

ノバルティスは、成果報酬型で薬を提供するビジネスモデルでも注目を集める。日本では法制度が追いついていないために提供に時間を要しているが、米国など海外では既に成果報酬型の薬の提供がはじまっている。薬を売ったからいくらという供給側・提供側の事情による値付けではなく、患者の病気が完治・改善したらいくらという個客の成果に基づく値付けである。

匿名取引、すなわち、交換の取引では、商品やサービスを提供した後、個客の状態を知る手段はなかった。そのため、原材料費、物流費、人件費などの供給側のコストをベースとして商品やサービスの値段が決まる、と考えることが一般的である。

一方、顕名取引、すなわちつながりの取引では、個客が“なぜ”その商品やサービスを必要としており“どのように”そのサービスを使い、“どのような”メリットを享受したか、あるいはどのような成果を手に入れたかを重視する。個客価値が可視化されると言っても良い。

「原価」などの提供者の理屈に基づく価格ではなく、個客が得る「成果」で価格が決まる。 これも、匿名取引から顕名取引への変革の本質を表している。

<つながりの時代の価値モデル>

匿名経済から顕名経済へのシフトは、価格の意味を大きく変える。ここでは、それぞれの取引モデルにおける価格の考え方を整理してみよう。

匿名取引、すなわち「財やサービスを貨幣と交換する」場合、個々の取引では、

「価格 = 原価 + 利益 (提供者余剰)」

と考えるのが一般的である。大量生産・大量消費を前提とし、匿名大衆を対象とする商品では、市場で受け入れられる利益幅を考慮して価格が決定されることはあっても、個々の商品(あるいはサービス) で値段が違うことはない。個々の取引で、お客様にどれだけの価値を提供できたかを考えることはないし、取引後 (交換後) に個々のお客様がどのような価値を得たかを知る手段もない。

一方、顕名取引では「個客一人ひとりに特別な体験を提供する」ことを重視し

「価格 + 個客余剰 = 個客価値」

であると考える。個客価値を考えることは、なぜ個客がそのサービスを必要としているのか、すなわち、個客一人ひとりの why を考えることにも相当する。つながりによって、個客の成果が可視化されるからこそ可能な価値モデルであるともいえる。

なお、顕名取引における個客余剰の可視化は、さらに重要な意味を持つ。個客余剰は個客の満足度であり、そのサービスへのロイヤルティにもつながる。つながりの取引においては、個客一人ひとりの満足度を高め、継続的にサービスを利用してもらうことは極めて重要である。個客余剰はその指標にもなり得る。

<おわりに>

匿名経済に慣れ親しんできた我々は、商品に値段があることを当然と考えている。それが、自分にとって価値あるものであれば問題はないが、本当に価値があるかどうか、意味があるかどうかを確認する前であっても、対価を支払って商品を「購入」しなければならないことも往々にしてありえる。

本連載で議論してきたとおり、匿名経済から顕名経済への変化は大きなパラダイム・シフトである。「財やサービスを貨幣と交換する」ことから「個客一人ひとりに特別な体験を提供する」ことを重視するモデルが広まりつつある。つながりの時代、個客一人ひとりがどのような価値を得たかを可視化し、その成果に対して個客余剰が得られるよう対価を設定することで、より納得感のある取引が可能になることに期待したい。

本内容の引用・転載を禁止します。

pagetop