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第25回:「顕名化の意味」

中川郁夫 コラム

<はじめに>

「ある女の子がお前のことを好きだったんだって」

中学3年の冬、友人から衝撃の言葉が。何だって? ある女の子って誰? 好きだった? って、過去形なの? じゃ、今は? わけがわからなくて友人を問い詰めたが、固く口止めされていたらしい。詳しくは教えてくれなかった。じゃ、黙ってろよ。いや、待て。それでも好きになってくれた子がいたのは嬉しいかも。でも、どないしろっちゅうねん (笑)。

今なら、匿名と顕名の違いで説明するかもしれない。

匿名の場合、自分の人気は分かるが相手に対するアクションは取れない。誰が、いつ、どこで、という情報がないのは匿名情報であり、自分のことを好きな女の子がいるとしても、その女の子を特定することもできなければ、具体的な行動につなげることもできない。

顕名の場合、相手に対するアクションが可能である。例えば、あの可愛いA子ちゃんが、今日、体育館の裏で会いたいと言ってくれれば、他のあらゆる予定をキャンセルしてでも会いにいくくらいの覚悟はある。それが顕名のパワーである(妄想が過ぎるが。爆)。

匿名市場と顕名市場の根本的な違いは「個客」を把握できるかどうかである。

匿名市場でも製品やサービスの人気の度合いを調べることはできる。先月売れたおにぎりの数を、性別やおよその年代別に調べることは簡単にできる。ただし、その情報は「モノ」に関する情報である。今お店に入ってきたお客さんが過去に何を買ったか、どんな好みかは分からない。

顕名市場では個客を「識別」してそのお客様に紐付けられる情報を集めることを前提とする。例えば、週に2回、カロリー控えめのスイーツを購入する私に (笑)、さらにカロリーを押さえた新作のプリンをオススメできるのは「顕名」ならでは、である。

では、顕名化が進むことで何ができるようになるのだろうか。あるいは、顕名化とは、個客に対してどのような情報が紐付けられていくのだろうか。

顕名化は市場構造を変える。これまで24回の連載記事で紹介してきた事例を見ても、ビジネスの構造が変わりつつあることは理解できるだろう。本連載も3年目に入るので、今回は、あらためて顕名化の意味を俯瞰して整理してみたい。

<顕名化>

あらためて顕名化について整理してみよう。まずは、匿名市場と顕名市場の比較から。

匿名市場は交換を前提とする。従来の経済学では「財やサービスを貨幣と交換する」ことを取引と考えるが、この考え方に「お客様」は出てこない。つまり、顧客が誰であるかは重要ではなく (顧客情報も不要)、モノとカネが交換されることを重視する。

一方、顕名市場は個客 (一人ひとりのお客様) を識別することを前提とする。顕名個客を識別して、個客に紐づく情報が参照できるのであれば、一人ひとりに特別なサービスを提供しようと考えるのは自然である。顕名市場では、個客一人ひとりに特別な「体験」を提供することを取引と考える。顕名市場の特徴は個客を識別し、個客に紐づくさまざまな情報を参照することにある。

なお、上記では、厳密性を期して「個客を識別する」と表現した。これは、一人ひとりのお客様を区別してサービスや体験を提供するために必要である。例えば、カロリー控え目を好む私に新商品を提案するには個客が識別できれば良い。

さらに、「個客を特定」し「把握」することができれば、もっと様々な情報を参照し、個客一人ひとりに特別な体験を提供できるようになる。冒頭の例で、ある女の子に具体的に行動を起こそうと思うと、個客を特定し、把握することが必要になりそうだ。

以下では、顕名市場においてどんな情報を参照し得るのかを見てみよう。

<who>

顕名市場では個客を識別する。whoを「識別子」とすることで、個客に紐付けられる様々な情報が蓄積され、データに基づいたサービスの提供が可能になる。結果的に、顕名市場では「個客一人ひとりに特別な体験を提供する」ことを取引の基本と考える。

Amazon Booksでは個客に応じた値付けをしている (本連載 第1回)。値札がない代わりにQRコードをスマホで読み取って値段を確認する。”What’s your price?” と表現されるこの仕組は、個客の情報を参照し (例えば、Amazon Prime会員であること、等)、個客ごとの価格提示を可能にしている。

なお、who を識別することは、必ずしも住所、氏名、年齢などの個人情報を入手して個人を特定することを意味しない。あるお客様が複数回、もしくは複数の場所で接点を有するときに、同じお客様であることを把握できることが重要な意味を持つ。

例えば、Netflixが驚異的なリコメンド精度を実現しているのは個客を識別することに原点がある (本連載 第13回)。あるユーザーがどのような映画に対してどのような評価をしたか、などの情報を蓄積し、当該ユーザーがどの俳優や監督の映画を好んで見るのか、などのデーター分析を活かしている。ただし、Netflixはユーザーの名前、住所、年齢、性別などの情報は参照していない (ユーザーを特定しない) と言われている。

もちろん、who が名前、住所、年齢、性別に紐付けられるケースもあり得る。Amazonアカウントは名前や住所 (荷物の送り先) や、誕生日情報、他にもいろいろな情報を参照して個客サービスを提供している。

<what>

顕名市場では、誰 (who) が何 (what) を買ったか (どんなサービスを利用したか) を記録する。前述の通り、whoが識別子として認識され、whoに紐付いて what の情報、すなわち購入履歴・利用履歴が蓄積されていく。

Amazon GOは、誰がどんな商品を購入したか (購入しなかったか) を実店舗で記録する (本連載 第12回)。個客一人ひとりの購買履歴を蓄積し、誰がどんな商品をどの程度の頻度で購入しているのかを記録する。例えば、お酒に関する情報でも、どんなジャンルの (ワイン、日本酒、ウィスキー、ビール、等)、どんな価格帯の (高級品、大衆向け、バーゲンもの、等)、どんなコンセプトの (健康志向、味の好み、価格優先、等) ものをどの程度の頻度で購入しているか、などを参照することで、当該個客がネットでAmazonにアクセスしたときにリコメンドする参考になるかもしれない。

<when>

顕名市場では、記録に日時 (timestamp) は必須である。誰 (who) が、何 (what) を、いつ (when) 買ったか・使ったかが記録され、参照される。

デジタル教科書は生徒の学習のはやさを認識することに利用できる (本連載 第2回)。どの生徒 (who) が、どの教材の何ページ (what) を、いつ (when) 終えたか、などの情報を蓄積することで、学習進度が容易に把握できる。もちろん、デジタル教科書に期待するのは、はるかに高度なデータ解析であり、一人ひとり学生の興味・関心や個性や強みを理解し、多様性と個性を重視する学習環境を実現することなのはいうまでもないが。

<where>

顕名市場では、日時 (timestamp) も記録される。誰 (who) が、何 (what) を、いつ (when) 買ったか・使ったかがデータ化され、参照される。

中国で一時期注目を集めたシェアサイクルサービスは日時・場所の情報を参照する (本連載 第3回)。街中に置いてある自転車を選んでスマホをピッとかざすだけで解錠され、好きなところまで移動してロックして乗り捨てる。誰が、いつ、どこからどこまで自転車を利用したかを把握することで実現できるサービスである。

<why>

顕名市場において、個客がサービスを利用する際、なぜ (why) を把握することもある。例えば、サービスによって個客が得られる「成果」を数値化・可視化することは、個客サービスの why をデータ化することの一種と考えることができる。

ノバルティスが提供した個客の成果に応じた課金モデルは注目を集めた (本連載 第6回)。多発性硬化症と呼ばれる病気のためのジレニアという薬を提供するための仕組みである。患者 (個客) は、薬の服用状況や病気の状態などを記録し、改善状況に応じて課金されるという。成果を数値化・可視化したという意味で、why に相当する情報を参照していると言える。

<顕名化の意味>

匿名から顕名へのシフトは個客把握・個客理解への変化とも言える。顕名時代、個客に紐づくデータを参照することが当たり前になる。上記では who, what, when, where, why などの代表的な項目だけを紹介したが、付随して、あるいはさらに細かな情報を取得することによって、興味・関心・趣味・嗜好・行動・生活・思考、などなど、さまざまなデータの参照可能性があることは容易に想像できる。

顕名市場では個客一人ひとりに特別な体験を提供することが重視される。個客接点をデジタル化し、個客に紐づくデータを集め、個客にとっての価値を把握・理解することが個客満足度につながる (リテンションレートも上がる)。まさに、データ戦略が命であり、データに基づく個客体験の提供がサービスの差別化の肝である。

<おわりに>

本稿では「顕名化の意味」について考えてみた。過去に紹介した事例を参照しつつ、簡単な項目についての個客データの例を紹介した。

匿名市場は「モノとカネの交換」を取引と考えた。個客に紐づくデータは重要ではなく、カネを重視した (表現は良くないが、笑)。モノの価値、すなわちモノの提供者側が考える価値で取引をしていたと考えると、なんと単純な構造だったのだろう。

顕名市場は「個客一人ひとりに特別な体験を提供する」ことを取引の前提と考える。個客に紐づくデータを参照し、個客価値に基づいてサービスが提供される。デジタルの時代=つながりの時代、個客を識別し、個客接点から得られるデータを参照しつつ、個客とサービスを共創していく。明らかに市場の構造は変わった。

次回は、匿名から顕名の変化を経済モデルの視点で整理してみたい。産業革命以降、大量生産・大量消費を前提に広まった匿名市場が、デジタル時代にどう変わるのか。独自視点で経済モデルの変化についても語ってみよう。

※本内容の引用・転載を禁止します。

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